武田軍は騎馬隊が有名だが、実質的には騎馬武者とその従者(武家奉公人)による部隊であった。元亀2年の武田信実に宛てた軍役定書によると騎馬3、鉄砲5、持鑓5、長刀5、長柄10、弓2、旗3となっている。騎馬の率はおよそ1割である。上杉氏の軍役帳、北条氏家臣の軍役をみても大体似たような割合であり、若干北条氏の騎馬率が高いくらいである。更に甲陽軍鑑によると武田信実は備の侍大将にあたる人物と思われ、前述における彼自身の手勢(陪臣)とは別に寄騎として武田家の直臣から付属される騎馬15騎、浪人(動員雑兵?)組313名(後に騎馬は200騎となるので、その場合は複数の備を率いたと思われる)で編成される備単位で考えても同様の結論が得られる。但し甲陽軍鑑にある各部将に付属される騎馬武者数については余り信用できないとする意見もある。
軍制上からも単独兵科としての騎馬隊の編成は難しい。軍制上の最小単位は寄子である。即ち寄子(騎馬武者)+郎党(武家奉公人)が基本的に最小運用単位となる為である。論考恩賞にも関わることであり、これを分離することは難しい。したがって、騎兵のみで部隊を構成したという事実は一部を除いてない(勝弦峠の戦いなど)。また、武田軍には騎馬の最大の特徴である「機動力」を生かした作戦がほとんど見受けられない。日本の戦国時代における騎馬隊は西洋の騎兵とは異なるものと考える必要がある。
さらに、馬は生き物である。現在のサラブレッドなどに比べれば、当時の馬は小型ではあるが、時期・場所を問わずに運用には人に対し十倍という大量の餌が必要である。安定した食糧自給が完全には確立していないこの時代に、大規模な騎馬軍団を維持するということは費用対効果の面から見ても非効率的であり、また合戦時においても人間の部隊以上に兵站・輜重に負担を強いる。
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