1567年に真田昌幸の次男に生まれました。
1600年第二次上田城合戦で父昌幸と共に
わずか2000の兵で徳川主力隊38000を
翻弄させました。
しかし撃退したのにもかかわらず
関ヶ原で西軍は負けてしまい家康から死罪を
命じられました
しかし、兄信之は稲姫と結婚しているため
東軍に属しました。
そして信之の頼みで死罪は免れましたが
紀州九度山に蟄居させられました。
そして兄信之は10万石の大名になって
真田家を明治まで存続させました。
そして1611年、父昌幸が病死しました。
そして3年後京都方広寺の鐘に
国家安康 君臣豊楽という文字がありました。
これは、家康を2分して呪い、豊臣の繁栄を祈る
と言う意味になり家康はこれを口実にし
大坂の陣が始まりました
このとき、淀君は全国の浪人を集め
幸村も呼ばれました。
しかし、幸村の策を言っても
豊臣家臣大野治長が文句ばかりいったので
真田丸と言うのを築きました。
そして、ここに意外と善戦しました。
そして大坂城天守閣に大砲を撃たれたので
淀君は和睦せよと言いました
和睦条件として大坂城の外堀を埋めました。
しかし、徳川は内堀も埋めてしまいました。
これにより、大坂城は裸になりました。
そして翌年夏豊臣から不審な動きがあるといい
徳川軍はまた出兵しました。
そして、幸村は自ら劣りになるといい
そして回り込むと言う最後の策を使いました
このとき豊臣軍全ての武将は
幸村に全てを託しました。
しかし、ここで思わぬに誤算が発生してしまいました
それは、雑魚兵が勝手に攻撃してしまったからです。
これにより幸村の策は潰えてしまいました。
しかし、幸村は自らの全ての軍を連れ
徳川本陣に突撃したのです!
これにより、家康は自刃しようとしました。
しかし、数が多かった徳川軍により幸村は
撃退されてしまいました。
その後、幸村は味方の傷を手当てしている
ところを襲われ戦死しました。
その後淀君、豊臣秀頼は自害
大坂城も燃えてしまい豊臣は滅んでしまいました。
そして家康は朝廷から元和、
と言う元号にしました。

結果

幸村惜しかった


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